VOCALOIDは「世界に通用する音楽シーン」から「巨大な内輪界隈」に成り下がろうとしている
2020年7月17日
私はVOCALOID界隈に警鐘を鳴らしたい。
どうも、kayolabo801(作曲名義はDance on Yakiudonになりました)です。
時の流れは残酷なもので、VOCALOID文化が花開いてからもう15年が経とうとしています。
そんな中でVOCALOIDという音楽シーンにも大きな変化が生じました。
懐古厨にはなりたくないので変化というものは原則受け入れる主義なのですが、どうもVOCALOID界隈は段々「音楽シーン」とはかけ離れたものとなっている気がします。
ボカロPの「表現者」化
VOCALOID黎明期に幅を利かせていたアーティストはもともと著名なコンポーザーで、彼らはVOCALOIDを楽器として「歌わせてみた」というスタンスで曲を作っていました。
元々VOCALOIDでない音楽を長く作ってきたのですから、当然作る音楽は一流です。
元々ボカロPというのは「作曲者」だったわけです。
しかしそれから少し経った2010年あたりに転機が訪れます。
曲に込められたメッセージ性、作り上げる世界観を全面に押し出したボカロPの台頭です。
彼らの曲の音楽性が悪いとは微塵も思いませんが、彼らの曲は「音楽」としてではなく「世界観込みの技巧的作品」として評価されました。
彼らはどちらかと言えば「表現者」の側面が強いと私は考えます。
それから現在に至るまで、音楽としての良さを追求するボカロPと世界観を追求するボカロPとで二分されたVOCALOID界隈が形成されていったように感じます。
しかし、有名になれるのは大抵後者です。
即ちVOCALOID曲を聴く人の需要は「音楽」よりも「世界観」にひどく比重が偏っている、そんな気がします。
VOCALOIDの「巨大な内輪界隈」化
現在でもVOCALOIDで重視されるのは音楽より世界観です。
niconicoで人気になった曲には歌詞について長文の考察が連投されるのが当たり前になりました。
深読みの楽しさを否定する気はありません。
しかしそれは「音楽」としての楽しみ方なのでしょうか。
皆さんご存知の通り今やVOCALOIDは世界中で親しまれるコンテンツとなっています。
ただ、外国のVOCALOIDファンが日本人のように歌詞の深読みで世界観に浸っているとは思えません。
彼らは純粋に「音楽」としてVOCALOIDを楽しんでいます。
このままVOCALOID界隈において技巧的に紡がれた文脈や壮大な世界観ばかりちやほやされ続けたらどうでしょうか。
VOCALOIDは日本という巨大な共同体における「内輪」コンテンツになってしまうのではないでしょうか。
これからどうすべきか
ここまで肥大化した世界観重視のVOCALOID界隈を止めようたって無理な話ですし、逆に衰退を招きかねないので止める気もありません。
ではVOCALOID界隈はこれからどうすべきなのか。
私は「もっと『作曲者』としてのボカロPにも世間が注目すべき」と考えます。
世界観重視のボカロPと音楽性重視のボカロP、供給はどちらも十分です。というか過多です。
リスナーがVOCALOID曲の「音楽」としての良さをもう少し意識してくれるだけで私の考える理想は実現します。
以上、偉そうに御託を並べたわけですが、これが「ボカロPをしながら『表現者』になれそうにない自分の嫉妬が詰まったひねくれた思想である」ということは重々承知しています。
でも最後に言わせてください。
VOCALOID曲は「音楽」なんです。